2015年9月23日水曜日

2015年9月23日の雑感

大人になって、恋愛ものの歌詞なんかに出てくる陳腐でロマンティックな言い回しの意味がしみじみわかるようになってきた。
「僕が君の女友達だったら」とか「帰れないふたり」だとか、ほんとにそうだよね・・・と思ってじーんとなる。

あきらかに10代の頃より感情は死んでるのになんでだろう。自分に夢中じゃなくなったから?





昔見た映画を今になって観かえすと、映像が手足の毛細血管の一本一本まで染み渡る気がする。
たとえばなにか大きい事件があったあと人々が無言で家路につく、みたいなシーンがあったとする。
前回観たときは(あの人はああだからきっと次のシーンでこうして、この人はこういうことを考えてて・・・)っていうふうにいちいち想像してたのが、今では(ここで各々、各々の内なる思いに考えをめぐらす・・・)ってくらいの雑な受け取り方をするようになった。
頭悪くなったんかな?とも思うけど、不思議とそっちのほうが心にスーッと入ってくる気がする。
人間の心は加算器減算器じゃなくてブラックボックスだから、そのまま受け入れる方が計算に狂いが出ないんだと思う。





半年くらい前人に聞いた「物語は犬のいない犬小屋」という話が面白かった。
誰か学者の言葉だったと思うんだけど誰の言葉だったかは忘れた。
「『物語性』とはつまり犬のいない犬小屋である。犬のいる犬小屋から物語は生まれない。」
みたいな話だったと思う。
犬のいない犬小屋って凄くうまい言い回しで、たとえば例を挙げると・・・と考えたところでアホらしくなる。
それこそ犬のいない犬小屋に犬を連れてくるような話で、しょーもない。


犬のいない犬小屋をじっと見つめ続けられるようなタフな心が欲しいと思う。

2015年9月9日水曜日

献血がすき

献血にはよく行く。

毎回うきうきしながら行くんだけど終わる頃には真っ青になってうなだれている。
怖がりなので実際に血を抜かれるときはもちろん、採血されるときも絶対に針を見ない。
腕に刺さった透明なチューブを流れる赤黒い血液を見るのはすごくいやだし、チューブの中の温かいそれが上腕に触れているのを意識するたびに鳥肌が立つ。
だけど懲りずに何度でも行ってしまう。

私の生活には非日常が介入する機会がほとんどない。
朝起きて仕事に行って帰って本読むか映画観て寝て、休みの日は散歩したり彼女か女友達と遊んだり(と言っても酒を飲んで喋るだけ)するだけ、それでけっこう満足して暮らしてる。
そんな私が病気でもないし用も無いのに定期的に腕に針を刺して血を500mlペットボトル軽く一本分も取られるなんて、控えめに言って滅茶苦茶に興奮する。

だから献血センターには必ず一人で行く。予定の日誰かに誘われてもなんやかや理由をつけて断る。
ロッカーに荷物を預けてTシャツ一枚になって、待合室でふやけてべこべこになった紙コップで冷たくて甘い紅茶を飲みながら自分の名前が呼ばれるのをじっと待つ。

いつもの質問シートにYES/NOで答える。海外渡航歴はなくて常用してる薬もなくて不特定多数の男性との性交渉もないです、誤って静脈に注射針を刺したりなんかもしてません。
血圧を測ってお医者さんの問診を受け、もう一度名前が呼ばれる。

採血のあと、寝椅子に横になって血を抜かれる。女性なのに血液の質がとても良いと褒められて、照れ臭い。
リラックスしてくださいね、とやさしく言って看護師さんが私の側から少し離れたところに立つ。

私の識別番号が貼られた血液パックが機械にかけられゴウンゴウンと撹拌される音がする。
私はここでは誰に対してもなんの責任もないただの番号で、しかも感謝される番号だ。