2015年4月15日水曜日

じいさんの太平洋戦争 その一

物騒なタイトルだけど内容はいつものごとく個人的な話。

太平洋戦争については日本史の教科書に載っている以上のことは知らないんだけど、二十年前に死んだ母方の祖父がよく話していたエピソードが印象的だったのでその中から二つ、紹介したいと思う。
本人の話と周りの人から聞いた情報だけで書いているので時代考証的に間違ってる箇所もあるかもしれない。見逃していただけるとうれしい。

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じいさんは私の実家から十分ほど車を走らせた海沿いに、ばあさんと二人で住んでいた。痩せぎすで背が高く、フォークリフトの資格を持っていて運送会社で働いていた。
いつも無表情で無口であまり子供と話をしたりしない男だったんだけど、戦争の話はポツリポツリとしたので、みんながそれを覚えていた。

【その一 】たくあんの話

じいさんのたくあん漬け大嫌いぶりは近所でも有名だった。
食べるのはもちろん目に入るのすら嫌で、ある日仕事を終えて帰宅したところ、食卓の上に嫁や子供が昼に食べた残りが置きっ放しになっているのをチラッと見た瞬間食卓をひっくり返したこともある。

じいさんの名誉のために言うと、普段は無口ながら本当に温厚な人で、毎日毎日文句も言わずに働いて給料袋はそのままばあさんに渡していた。嫁にも子供にも一度も手をあげたことはない。私自身もずいぶん可愛がられた記憶しかない。
そんな彼にもこの世の中に我慢できないことがひとつふたつあった。それに ”触れてしまう” と抑制が効かなくなり、激しく物に当たってしまうのだ。
そしてその「ひとつふたつ」のうちのひとつが ”たくあん” だった。

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母の話。
あるときじいさんは娘(つまり私の母親)を連れてデパートの食堂に出掛けカツ丼を注文した。それまでデパートの食堂に連れて行ってもらったことなど一度もなかった母は嬉しくてたまらなかったらしく、それでよく憶えていると言っていた。
しばらくしてテーブルに置かれたカツ丼、それに別皿で添えられたたくあんを見た瞬間、じいさんは跳ねるように立ち上がりテーブルに五百円札を叩きつけると黙って食堂を出た。
当時から気が強くてわがままだった母だったが、じいさんのあまりの剣幕に驚き、黙ってじいさんの後を追った。それから五十年経った今でもその日のことは昨日のことのように思い出せると言う。

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本題は食堂事件から十数年遡る。
十八歳で徴兵されてなんやかんやあり満州に渡ったじいさんは、兵舎での一般的な食事である「どんぶり麦飯にたくあん二枚」という食事を頑として受け付けなかった。
こっそり捨てるか人にやるかすればいいじゃないかと思われるだろうが「たくあんで汚れた飯なぞ食えるか」という気持ちだったんだと思う。

当然上官に顔の形が変わるほど殴られた。食糧難の戦時中に兵舎で出る食事を好き嫌いするなんていう話は正直言って気違い沙汰だ。上官は「貴様なんか死んでしまえ」と何度も何度もじいさんの顔を蹴った。じいさんはどんなに殴られても蹴られても一口も食べなかった。

じいさんは懲罰房に入れられた。房にはたくあん飯が差し入れられたけどじいさんは食わなかった。
十二歳で親兄弟を亡くして以来ボロ屋で一人暮らししていたじいさんには帰りを待つ人もおらず失うものも怖いものも何ひとつなかったので、別にいつ死んでもいいやと思っていた。全身殴り傷だらけで腹がペコペコで冷たい房の床に横になりながら涙は出なかったと言っていた。

丸一日ほど経ってから「もう出ていいぞ」と言われたじいさんが上官に促されて食卓に着くと、じいさんの席の麦飯にはたくあんが乗っておらず塩が添えてあったという。



これがたくあんの話。
続きはまたこんど。